西洋の宮廷美容術の世界

 ~フランス、伝説の美女ディアーヌ~

  フランス史に燦然と輝く、伝説の美女ディアーヌ

DianedePoitiers.jpg

  彼女の生涯をたどり、その美の秘訣に迫ります。

 

  20歳近くも若いフランス国王アンリ2世の心を、終生捕らえた話さなかった彼女は、知的能力も非常に高く、実質的に国王の相談役でもありました。

  『天は二物を与えず』なんて言いますが、もらう人は幾つももらっているものですね……。

       (´ヘ`;)  ウーム

 

  アンリ2世の正妻は、イタリアから嫁いできたカトリーヌでした。

  結婚してから長らく子供に恵まれず、議会は王と王妃の離婚を主張し始めます。

  宮廷で追い込まれていくカトリーヌを励ましたのは、ディアーヌでした。結局、アンリ2世は、王妃との間に生涯で10人の子供をもうけています。

  これには、『子を産まぬ王妃が離縁され、新たに若く美しい王妃が選ばれて、王の寵愛が失われるのを避ける』という計算もあったのだとか!ディアーヌ、意外と腹黒いかも?

  アンリ2世はディアーヌを深く愛し信用し、王妃との間に生まれた子供の養育をディアーヌに任せました。また、ディアーヌに数々の贈り物をしましたが、その中には、世界で最も美しいと称されるシェノンソー城 (Château de Chenonceau)も含まれます。

(画像は、ウィキペディアより転載

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%BC%E5%9F%8E )

  アンリ2世、彼は1559年に馬上試合の事故がもとで亡くなります

  この事件は、かのノストラダムスの予言の的中例として有名です。(注1)

  ディアーヌは、最愛にして最大の庇護者を失ってしまいました。

 

  王の死後、王妃カトリーヌとアンリ2世の間に生まれた王子がフランス王に即位し、ディアーヌに夫を奪われ続けた王妃が、王母として実権を握ることになります。

  さて、王妃カトリーヌのフルネームは、カトリーヌ・ド・メディシス(仏語Catherine de Médicis、1519年‐1589年)。

  フランスの歴史に詳しい方は、「あぁ、ディアーヌ、終わったなァ」と感じるでしょう。

  そう、フランス史上でも屈指の汚点とされる『サン・バルテルミの虐殺』を引き起こした悪女、王妃カトリーヌその人です!

  ガクガクガクガク (((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル 

  ディアーヌの運命や、いかに!?

 

  アンリ2世の死後、ディアーヌは、シェノンソー城などの王からのプレゼントを没収されました。

  この後も、これでもかとばかりの残忍な復讐が続くかと思いきや……、

  ディアーヌはプレゼ伯爵と過ごしたアネ城に戻って静かな生活を送ることを許されたのです。ディアーヌ自身は宮廷を去りますが、彼女の血統からのちにルイ15世が輩出されました。

  ディアーヌは、ただ単に美しいだけの女性ではなく、非常に聡明で、アンリ2世の政治的な相談役もつとめていました。美貌だけでなく、知性と政治的センスでも、王や周囲の全幅の信頼を得ていたのです。

  そんなディアーヌの魅力は、王妃カトリーヌの心までも捕えていたのかもしれません。

 

  さて、次回はお待ちかね、ディアーヌの美容法です。

  伝説の美女、その美貌の秘密とは!?

 

 

 

(注1) ウィキペディアより転載

百詩篇第1巻35番[編集]

Le lion jeune le vieux surmontera,
En champ bellique par sigulier duelle:
Dans cage d’or les yeux lui crèvera:
Deux classes une, puis mourir, mort cruelle.
若きライオンは老いたるに打ち勝つだろう、
一騎討ちによる戦いの野で。
黄金のカゴの中の両目を、「彼」は引き裂くであろう。
二艦隊[注釈 19]の一方、そして死す、酷き死。

信奉者の著書では必ずといってよいほどに紹介されている有名な詩篇である[80]。彼らは、フランスアンリ2世の横死と解釈している。1559年6月30日に、アンリ2世は妹マルグリットと娘エリザベートがそれぞれ結婚することを祝う宴の一環として開催された馬上槍試合に出場した。そこで彼は、対戦相手のモンゴムリ伯爵の槍で片目を貫かれるというハプニングに見舞われ、その傷が原因で7月10日に絶命した。この詩はその様子を描いたものだという(「カゴ」は兜の比喩だと解釈される)。

この詩については、1863年に書誌学者フランソワ・ビュジェが一語ずつ史実と文脈との整合性を丁寧に検証した上で反論している[81]

ビュジェはまず、国王も伯爵も公式の銘句等で「ライオン」と呼ばれたことがなく、年齢差は「若い」「老いた」と対比できるほどではないと指摘している(アンリ2世は当時40歳で年齢差は7歳もしくは11歳)。また、勝敗がつかなかった事故に「打ち勝つ」を使っていることや「戦場」の比喩も文脈上不適切であるとする。さらに、アンリ2世の兜は金でなかったことや貫かれたのは右目だけだったこと、艦隊は「(陸の)軍隊」とも訳せるがどちらも無関係だったことなどを挙げ、詩の情景が史実にほとんど適合していないことを示した。

現代の実証的な研究では、この詩で描かれているのは空中に浮かんだ幻像なのではないかと指摘されている(当時は空中を行進する軍隊を見たとか、何もいないのに空から合戦の音が聞こえた等の「驚異」が多く噂に上っていた)。実際、リュコステネスは、1547年のスイスで空中での軍隊の合戦の幻が目撃された際に、その幻の下には二頭のライオンが争う幻も目撃されたことを記録している。また、実在の人物になぞらえているのならば、むしろ若い方はアンリ2世、老いた方はカール5世を想定していたのではないか、とも指摘されている[82]