美の求道者
~中国・宮廷美容術の世界~
このところカタい話が続きましたので、息抜きに美容術の話を。
宮中でその美を誇る美妃たち、その美容術の秘密!
まずは、中国の宮廷美容術の祖ともいえる女性の話です。
(注1)
中国・南北朝の時代。
陳朝(西暦557年-589年)の最後の皇帝となる陳後主(西暦553年‐604年)の後宮に、ひとりの女性がいました。
彼女の名は、張麗華。
麗しい華、その名前からしてスゴそうです。
彼女の家族はムシロ織で生計を立てており、非常に貧しい家庭の出身でしたが、幼くして宮中に召しだされて官女となりました。
後宮の美女の中でもとびぬけた美貌を誇り、特に7尺にも及ぶ黒髪は彼女の美しさを際立たせていました。それに加えて、張麗華は記憶力に優れ、宮中の様々な情報にも通じていました。
皇帝・陳後主は、彼女を一目見るなり、彼女なしではいられなくなってしまいます。ついには、政治的な決断の際にも彼女に相談するようになりました。陳朝の重臣たちでさえも、彼女の意見に従うようになったと伝わります。
彼女は聡明な女性で、彼女の周りには宮廷内外の様々な人間が出入りしたためか、宮廷以外の情報にも明るかったそうです。幼いころから宮中の住民であったためか、迫りくる国難に対処する術を知りませんでした。
陳後主は、壮麗な宮殿を造営して国力を疲弊させ、重い負担を強いられた民衆の不満が高まります。しかし、美女におぼれる君主は、忠臣の諫言にも、耳を貸そうとしませんでした。
そして、その時期、北方の強国・隋が、着々と国力を蓄えていたのです。
西暦588年、ついに隋の文帝は62万もの大軍を南下させ、陳に攻め入ります。
陳朝はあえなく敗北し、陳後主と張麗華は派遣軍によって囚われの身となります。
張麗華の美貌は、天下に知れ渡っていました。隋軍の統帥は、彼女を我がものにしたいと思い、部下に張麗華の身柄を確保するようにと密かに命じていました。
しかし、総帥の密命を帯びていた部下は、傾国の美女による災いを断つため、独断で張麗華の命を奪ってしまったのです。
張麗華の美しさは、彼女の死の時ですら、全く衰えを知らなかったと伝わります。
まさに経国の美女と言うにふさわしい張麗華の人生ですが、次回は彼女の美容術をお届けします。
宮廷に咲き誇った、張麗華の美貌。
それは、当時の宮廷医術の結晶でもあったのです!
(注1)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E9%BA%97%E8%8F%AF